ひろみちおにいさんについて。エッセイのエッセイ。
Twitterでとてつもないエッセイを読んだ。
ひろみちおにいさんといっしょ①#エッセイ pic.twitter.com/e1D7IZ3XhE
— エムコ (@m_emko) 2021年5月25日
読んでいて胸が痛む。自分にはこんな文章は到底書けない。毎行おもしろくて読み飛ばす隙を全く与えない。
私が人に読ませることを意識して作文するとき、余計な情報をなるべく削ぎ落として書く。熟語を使うときは対義語・類義語も調べて短くなるようにする。重言もなるべく避ける。
結果として、簡潔だが無味乾燥で無機質な文章が出来上がる。英文を機械翻訳したような、読みやすくつまらない文章が出来上がってしまう。
だが、先のエッセイを読んで、「余計な情報」というのは、人の心を掴むための不可欠な要素だと改めて知った。
おもしろくなければアナタの文章など誰も読みはしないのだ。
噺とは無関係に思える落語の枕。
あるいは居酒屋で頼む一杯目の生ビールと乾杯の唱和。
それらは開幕のゴングだ。鳴ったが最後、否応なしに引き込まれ、時間を忘れ、落語も飲み会も一席が終わる。
彼女のエッセイも同じだ。もはや強引に読まされると言ってもいい。あとは漫画喫茶で好きな作品を見つけたときのように、いつの間にか次々とエッセイを読み漁っていた。
もう一つ重要なのは、小難しさを感じさせないこと。
実際に知性がないのとは違う。能ある鷹は爪を隠さねばならない。
「おかあさんといっしょ」という幼児向けテレビ番組から入る。誰にでも読めるということが大事だ。
そして「カラオケで『おかあさんといっしょ』の歌を歌う」「返事はハイかYES」。
この辺で「この人バカでおもしろい」と思わせるのは実は高等技術。
このエッセイは、実際にはツカミからオチまで巧妙に練られたすべらない話だ。
このエッセイストは、隠した爪でしっかりと読者を掴んで離さない、狩りの達人だ。
野球の大谷翔平か、将棋の藤井聡太か。自分では絶対に手の届かない努力と才能を持った人間がいる。
日本語はある程度誰にでも扱えるので見落としがちだが、「文才」にも天賦のものがあると思った。
このエッセイを読んで、一人で勝手に興奮して、絶望した木曜の深夜。エッセイを読んだ直後だからか、比喩を「余計に」盛り込んだ、エッセイについてのエッセイを書いた。