週末デッドエンド

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2021-06-27 Sun. — 人新世の「資本論」の論法への所感と哲学の研究スタイルへの疑問。

読書

人新世の「資本論

本書で繰り返される主張の一つに、「資本主義は無限の経済成長を目指す」とある。そんなことを誰が言っているのだろう。素朴にそう考えている経済学者や政策決定者がいるのだろうか。地球の資源は有限であるということを考慮に入れていない場合はあるかもしれない。しかし、無限に経済は成長可能だというイノセントな青写真を描いている者が本当に存在するのか。著者にとっては自明な事実なのかもしれないが、経済や環境問題にそれほど明るくない私には、仮想敵と戦っているような印象を受ける。

本書の記述は、一つ一つは正しく、一考の余地がある。だが本書では、そういった正しそうな事実やデータを、しばしば途轍もない飛躍を経て「成長をやめる」という主張につなげてしまう。例えば、「生活の規模を1970年代後半のレベルに戻そう」と主張し、「日本人は海外旅行ができなくなる、ボジョレー・ヌーヴォーを飲めなくなる。地球環境に比べれば大したことがないだろう」と述べる。今から40年以上前の生活水準に戻したときのダメージは、海外旅行だとかワインが飲めないだとかで話が済むような問題ではないだろう。この過激な結論をさも当然の帰結だというようにあっさり流しているが、ここを掘り下げて議論しなければすべてが机上の空論だ。

著者はこの本を出版することで何がしたいのかがわからない。覆水盆に返らずというように、資本主義やグローバル化はもはや不可逆な変化だ。全世界を脱成長という一つの意思で統一して運営することなどできない。彼の主張は手段の目的化が著しいように思う。客観的なデータを参考にして複雑な現実を読み解き解決策を提示していくのではなく、「脱成長」という示したい主張のためにデータを恣意的に引用して論を補強しているように見える。

本書には、内容とは無関係の不満がある。ネット上の記事の引用が多く、リンクが記載されているが、リンク切れしているものが多い。

日記

断酒15日目。夜中に3時頃から2時間くらい寝たのだが、虫が出る夢を見て起きてしまった。結局その後、朝9時から14時くらいまで、午前中寝た。

これは本書に限らないのだが、なぜ哲学では「カント研究」「マルクス研究」というような、特定の一個人の思想を研究することが罷り通るのだろう。仮説に過ぎない思想を論理だけを用いて深めても、前提が間違っていればその体系は空想に過ぎない。仮説は検証されなければならない。

自然科学では、コンピューターシミュレーションをすることがある。それはシミュレーションだが、故にパラメーターを変えれば様々な状態をシミュレートできる。それだけではただのシミュレーションに過ぎないが、そのパラメーター群から現実に適う条件を探すことができる。無論、予期せぬ要因によって現実に適合しないことがあるが、それは発見次第しらみつぶしに修正していけばよい。それでもダメならシミュレーションの前提が間違っているので新たにプログラムを組み直す。

これは自然科学に限らず経済学・環境問題・哲学分野でも応用可能な方法だと思う。実際、経済学でのノードハウスの温暖化研究などでは、温室効果ガスの抑制コストなど様々な因子をパラメトライズした結果、炭素税をかけることで人為的な温暖化を抑えられるというシミュレーションをしている。そして実際、現実に合わなければその都度修正を加える。そういって政策決定にも影響を与える現実的な理論を作り続けている。地球温暖化問題は未曾有の危機だ。だが、誰も経験したことがないからといって何も考えられないわけではない。脱成長に理があるなら、まずは厳密でなくてもいいので現実をパラメトライズした反証可能な理論をつくればいいと思う。

と、いろいろ調べながら3章くらいまで読んだ。何も考えなければ文章自体は非常に読みやすいので、あんまり時間を書けずに読めると思う。メモを取り始めて長くなってしまった。